穴漏峠


記事の内容

前へ | 次へ

<F・フクヤマ『歴史の終わり』、S・ハンチントン『文明の衝突』>
2005/08/19 01:18

現在アメリカのネオコンの立場にあり、ヘーゲルのドイツ観念論の系譜を引くフランシス・フクヤマは、ポスト冷戦の時代を歴史の終わりと見る。フクヤマのいう「歴史」とは、「一直線に伸びた社会形態の進歩プロセス」という意味である。つまり「歴史の終わり」とは、「社会形態の進化のプロセスが終局を迎えた」ということである。歴史上、世界には様々な政治体制があったが、内部に欠陥や矛盾を抱えたものは消滅した。最後にリベラル・デモクラシーが残ったが、これは内部矛盾のない人間社会の最終形態である、というのがフクヤマの主張である。もちろん、アメリカなど民主主義諸国に社会問題がなかったわけではない。しかしそれは、自由・平等という民主主義の原理に矛盾があるからではなく、その原理を完全に実行できないところに生じている問題なのだ、というのである。
現実を見てみると、脱歴史世界(自由民主主義)と歴史世界(原理主義、民族主義)の闘争は二極分化の道をたどっているように見えるが、それは過渡的な現象であり、紛争の解決には力の行使が認められるとする。
歴史は、ヘーゲルの言うように、自己保存の法則をこえてまで他者の承認を求める人間本質の「主か奴か」の争いにその端を発する。認知への欲望は、プラトンのいう、自らのさまざまな価値などを他人に認めさせたいと望む「気概(thymos:テューモス)」と相似しており、その欲望=気概が歴史を動かしてきたとフクヤマは主張する。この欲望は二つに分類され、ひとつは「優越願望(megalothymia)」で、自分が他人よりも優越していることを認めさせようとする欲望である。これは暴君にもアーティストにも見られる性質である。もうひとつは、「対等願望(isothymia)」で、これは他人と対等なものとして認められたいという正反対の欲望である。資本主義における貧困の問題は、認知の問題つまり、相対的な問題になりつつあるから、欲望としての「対等願望」は満たされないまま残るとされる。ヘーゲル=コジェーブ的な歴史の終わりに生きる人間は、ニーチェの言う「ラスト・マン」であろう。すなわち、自らの私的な価値体系が相対化され、自らを自己犠牲に駆り立てるほどの「気概」のない人間である。それは「優越願望」を欠いた人間とも言えるが、フクヤマによれば、普遍的で画一的な民主主義はその平板さゆえ「優越願望」への動機を喚起するという。
ところで、コジェーブは1959年に日本を訪れたさい、人は人間をやめて動物性にもどるというヘーゲル解釈としての「最後の人間」という考えを改めたといわれている。コジェーブが見たのは、政治的、経済的目的もなく時代と共に象徴的意味さえ失った記号と形式への戯れとしての日本人のスノビズム(貴族崇拝)であった。日本では純粋に形式的なスノビズムが「優越願望」のはけ口になっていたのである。
フクヤマはそのような「優越願望」の欠如した「最後の人間」が、私的な領域の閉鎖し社会的紐帯が失われていくことにたいして懸念している。他方人々が終わりなき日常への屈折として「最初の人間」に後退し、流血状況が再現されることにも対しても懸念している。フクヤマがリベラル・デモクラシーの最大の脅威と考えているのは、本当の意味で存続の危機に晒されているものは何かという点について、我々自身が混乱していることにある、という。それは、社会が民主主義に向けて進歩してきた一方で、現代思想は相対主義という袋小路に入りこみ、人間の尊厳を形成しているものについての合意、あるいは人間の諸権利を定義することが不可能になってしまったということを意味している。このことが、一方で「対等願望」を極度に肥大化させ、他方で飼いならされていない「優越願望」を再解放していくのである。

いっぽう、サミュエル・ハンチントンは「冷戦後の世界は七つあるいは八つの主要文明の世界である。……広範な戦争にエスカレートするおそれが強いのは、文明を異にするグループや国家のあいだの紛争である。」;「社会をある文明から別の文明に移行させようという努力は成功しない。……西欧が生き残れるかどうかは……自分たちの文明は特異であり、普遍的なものではないということを認め、非西欧社会からの挑戦にそなえ、結束して、みずからの文明を再建して維持できるかどうかにかかっている。」と言う。ここで言われている文明とは、中華、日本、ヒンドゥー、イスラム、西洋、ロシア正教、ラテンアメリカ、アフリカの8つである。中でもアメリカ型民主主義とイスラム原理主義の対立の溝は目に見えて深化しており、ポスト冷静という時代に、ハンチントンは鉄のカーテンから新たなる、ベルベット・カーテンと言うべき、西欧/アラブ・イスラム文明の衝突という新たな対立を見たのである。
また民族紛争は、ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦、コソボ自治州における紛争、イスラエルとパレスチナの対立など、異民族間の戦いが後をたたない。著者はこうした紛争を「異文明間の衝突」としてとらえ、冷戦後の世界では、イデオロギーではなく文明のアイデンティティによって統合や分裂のパターンがつくられていると主張する。このアイデンティティの追求とは、「自分は何者か」を問うことであり、自分という存在の意味を明らかにしようとすることと言い換えられる。それぞれの民族が自己のアイデンティティを主張し、自分の存在を他者に認めさせようとするとき、異なるアイデンティティを主張する相手との間に対立が生じる。この対立こそが著者の言う「文明の衝突」である。

カテゴリ:小西まなみの現代思想概論

前へ | 次へ

コメントを見る(1)
コメントを書く
トラックバック(0)
BlogTOP

ログイン


Powered By FC2ブログ